成長過程

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「数学のオネエサン」になりたい

こんにちは、いーりです。

 

今日はじぶんの夢の話をします。

「数学のオネエサン」になりたいんですが、その話をします。短いです。

 

理科のオネエサンとかカガクのオネエサンとかずるくないですか?あんな、なんか色混ぜたり竜巻作ったりなんか飛ばしたり。面白そうすぎるでしょ、興味持てそうすぎますもんあんなん。ずるい。なんべんでもいうけどずるい。数学もそういうのやりたい。

 

だいたいね、黒板でがりがり書いてはい解けたとかやったところで「おもしれー!」って思う人そんなにいないんですよ。いないの、だから私は孤独なの。悲しい、私は悲しい。もっと数学のこと好きになってほしい、数学に楽しいきっかけを見出してほしい。どうせどこ行こうと何してようとだいたい数学は使うんですよ、連立方程式なんか使わんとか言ってる人おるけど、「キノコ複数パック」が複数あったときどっちが自分にとって安くほしいキノコが手に入るかっていうと連立方程式使うんですわ。限定的すぎる?ちょっと他にぱっと思い浮かばなかった。許して。

ちょっとびっくりしたのが、歴史好きな友人に「パズルっぽくて楽しいっていうけど、パズルはストーリーがないから数学嫌い」って言われたことですね。なるほどそういう視点もあるのか。

ここで面白いなと思ったのは、いわゆる「数学で論理的思考力が醸成されるのは、数学が『AだからB、BだからC』っていう考え方をするからだ」みたいな論調がありますが、それはストーリー(演繹)であるわけで、おそらく「数学は演繹だけじゃない」ってことをその人はどこかで理解してるわけです。すごいでしょ、数学嫌いって言ってる側の人間が「演繹だけじゃないから論理的ナントカということはない」って理解してるんですよ。頭いいなと思いました。そして「パズルはストーリーがないから嫌い」って言われると、「ストーリーがあればいいんだな?じゃあ演繹法の証明の例でも紹介しよう」なんて思ったりするわけですが、好きになりたいって思ってない人に紹介したところで仕方ないのでやめてます。

 

まあそんなこたいいんですよ。サイエンスの中で数学ってかなり特異なポジションだなという。物理もブツがある、化学もブツがある、生物もブツがある、地学もブツがある。数学だけない。どこまでいっても数学は質量を持たないんです。いや、持つ数学のジャンルもあるんですけど、そこそこ専門に走るうえにだいたい数学単体として成立していない(理科を一緒にやってる)ことになるので。質量を持たないのに、どうやったら実験いっぱいサイエンスのオネエサンみたいになれるのか?まだわからないので、もっと勉強します。

 

そして、どうして「自分が」数学のオネエサンになりたいかというと、そういった使命感にかられているからです。

他者への理解を促進させ、興味を持たせるのは教職の役割なわけですが、現代日本の教育環境にそんなもの求めてはいけないので、私のような教職関係ない人がやらんとあかんな、と思ったのがひとつ。さらに、「自分は幸運にも周囲が賢く環境に恵まれ、自分が環境的にアホで、アホの学問に対する貢献の仕方を身をもって教えてくれたクラスメイトがいた」かつ「学問に関わりたかった」のがひとつ。後者について語ります。

プロフィール知ってる方いたらなるほどなと思っていただけると思うんですが、世間的には高学歴とされている学歴を手にしていながら、蓋を開けてみれば成績がゴミクズなんですね。日本の大学って入れば出られるようになってるので、一度合格してしまえばもうそのあとはどれだけゴミみたいな成績だろうと肩書は離れないんですね。かなりつらい。さらに、自分はずっと「自分はアタマが足りないから」と思って目をそらし続けていた「博士後期課程」。「アカデミックをずっとやっていたい」と思うようになって、まあそれが遅かったんですね、タイミング的に。もっと勉強してなきゃいけなかったけど、気づいたときには本当に「アタマが足りないから」諦めざるをえなかった。「D進したいです」と伝えて指導教員の結構かなりすごい先生に「いーりさんなら自分で判断できると思うから、よく考えて」と言われたとき、「傷つけないように、だめと言われたのだな」と判断して、その日は家で泣きました。とても悔しくて仕方がなかった。「性格はまさに向いてるね」というフォローが、自覚しているだけにかなりつらかった。大学教授にありがちな性格ってわかります?到底現代社会で生き延びられるような行動パターンじゃないですよね。それでなおかつ頭が悪い。死ですよ死。

じゃあ大学にいられない自分はアカデミックを諦めないといけないわけで、でも社会に出て、学問をもっと広めたいと思ってしまったとき、どうしよう、と思い、そこで高校時代の友人を思い出しました。彼は数学がけっこう苦手なほうで、わりと試験でも苦戦していたのですが、ある日彼に宿題の解説当番が当たった日のことです。どんな解説するんだろう、どこでつまずいて終わらせたのかな、と思いながら聞いていたのですが、それはそれは綺麗に「平易なことばでかなり身近になるように」解説してのけました。あまりにもキレイだったので、嘘のようですが生徒から全体で拍手が起こりました。彼の素直で実直な人柄もありますが、「おまえ、すごいな!よくわかった!」と私も思ったことを鮮明に思い出せます。嘘じゃないですよ、信じてください。あれは伝説。

そして、自分が今度は彼の役目を担う番だと思ったのです。自分が伝説になろうと思いました。あれは、「できない側」の人間でないと担えない役割だと思ったのです。

実際、研究室の勉強会も自分が主催や当番だったときは、ちゃんと準備していれば「非常にわかりやすい」という評価を得ていました。ましたよね?私の都合のいい思い出補正だったら恥ずかしいのですが、研究室の人どうでした?

 

アカデミックが弱くて、社会をそれで回そうとすると、確実に終わります。技術大国ニッポンとか言っておいて、なかなかどうして現実は「まじかお前」という風潮なんですよ。未来が無さすぎる。

勉強しろ。できれば楽しく。そして数学をやれ。スウガクアレルギーとか言ってる場合じゃない。どこでも使うから。私が手伝うから。一緒に賢くなろう。そして最終的には私ができないことをやってくれ。

ある程度脳の発達も関与するとは思う。思うが、数学LDでも数学を楽しむことくらいはできるし、「いいよね、数学」くらいにはなったっていいはずだ。私も倫理がべらぼうに苦手だ。苦手だから、ってバチバチに勉強して試験結果が半分以下になるくらい苦手だが「いいよね、倫理」と思う。数学に対して、そういう風潮になってほしい。