創作について
こんにちは、いーりです。
「創作について」後編、「いーりの創作とは」について話していこうと思います。
産むってなんだろう。ちょうどこれを書いてるときに親しい友人が出産しました。生ができるってすごいね。
夢って自分の持ってるものからしか生まれないじゃないですか。夢って形になれば創作だと思うんですよね。自分の持ってるDNAのようなものを形にしていく、みたいな。
自分はその種火が情動なのですが。こうしたい、という気持ちのような。
現状私は今絵が描けません。おそらく音楽もできないでしょう。書もできなくなりました。それらに共通する点に心当たりがあるのですが、「なぞりつくる」出発の地点から少し歩いて、「表現する」地点に到達したのかなと。絵と音楽は20年以上、書は最近やっていませんが10年は続けました。なんとなく歩いてきて、ようやく「表現する」ところに立ち入ることができた、といえばめでたいのですが、表面的に今までできていたものができなくなる苦しさというのは、包丁を腹に当てる気概とどちらが熱量があるか、という次元になってきます。
私は「表現」がしたいのです。何のために?何のためにだろう、「表現することができる自分が好きで、それが見たいから」かもしれない。
ひとつ前の記事にも書いたのですが、画には熱量が伴います。そして猪熊先生の「絵を描くには勇気がいる」という発言も、全くその通りと思います。白紙のキャンバスとペンはすべてを拒絶しませんが、己と向き合うことになるということでもあります。私の場合は「描けない己」と。カウンセリングでは「自己実現、自分探しのために描いてる」ということになりましたが、そうなれば「まだ見ぬ自分を自分の中から探す作業」という気の遠くなる話にもなります。
創作とは芸術活動であり、正誤のあるデザインとは異なります。しかし出来の良し悪しはあります。悪いものしか産めておらず(デジ絵のいいところは、気に入らなければレイヤーを削除すればよいだけな点)、かといって生みの苦しみは付きまといます。
つらい苦しい言ってても、それをやめることはできません。
なぜって、私を受け容れてくれるのは絵だけだからです。
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追記
書道は書き方から始まったのですが、最後は手本見ながらも「こんなん書きたい字とちゃう!引きたい線とちゃう!こんなんじゃない!もっと!もっとこう!!」となっていました。書きたい字は今も書けていません。今普段書く文字は惨憺たる有様です。