成長過程

絵のこととか日頃のこととか話します

創作について

こんにちは、いーりです。

 

「創作について」後編、「いーりの創作とは」について話していこうと思います。

 

産むってなんだろう。ちょうどこれを書いてるときに親しい友人が出産しました。生ができるってすごいね。

夢って自分の持ってるものからしか生まれないじゃないですか。夢って形になれば創作だと思うんですよね。自分の持ってるDNAのようなものを形にしていく、みたいな。

自分はその種火が情動なのですが。こうしたい、という気持ちのような。

 

現状私は今絵が描けません。おそらく音楽もできないでしょう。書もできなくなりました。それらに共通する点に心当たりがあるのですが、「なぞりつくる」出発の地点から少し歩いて、「表現する」地点に到達したのかなと。絵と音楽は20年以上、書は最近やっていませんが10年は続けました。なんとなく歩いてきて、ようやく「表現する」ところに立ち入ることができた、といえばめでたいのですが、表面的に今までできていたものができなくなる苦しさというのは、包丁を腹に当てる気概とどちらが熱量があるか、という次元になってきます。

 

私は「表現」がしたいのです。何のために?何のためにだろう、「表現することができる自分が好きで、それが見たいから」かもしれない。

ひとつ前の記事にも書いたのですが、画には熱量が伴います。そして猪熊先生の「絵を描くには勇気がいる」という発言も、全くその通りと思います。白紙のキャンバスとペンはすべてを拒絶しませんが、己と向き合うことになるということでもあります。私の場合は「描けない己」と。カウンセリングでは「自己実現、自分探しのために描いてる」ということになりましたが、そうなれば「まだ見ぬ自分を自分の中から探す作業」という気の遠くなる話にもなります。

 

創作とは芸術活動であり、正誤のあるデザインとは異なります。しかし出来の良し悪しはあります。悪いものしか産めておらず(デジ絵のいいところは、気に入らなければレイヤーを削除すればよいだけな点)、かといって生みの苦しみは付きまといます。

 

つらい苦しい言ってても、それをやめることはできません。

なぜって、私を受け容れてくれるのは絵だけだからです。

 

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追記

書道は書き方から始まったのですが、最後は手本見ながらも「こんなん書きたい字とちゃう!引きたい線とちゃう!こんなんじゃない!もっと!もっとこう!!」となっていました。書きたい字は今も書けていません。今普段書く文字は惨憺たる有様です。

美術館をおすすめする

こんにちは、いーりです。

 

リクエストにありました「おすすめ美術館」について書いていきます。

びっくりだね、全部香川県にあるよ。ごめんね、でもおすすめだから行ってみてね。

空間芸術多めです。「美学は知性で読むもの」という近代の傾向があまり好きではないので、そこから遠くなっても「いいな」って思えるものをおすすめしています。

ちなみに地中美術館は通路すら作品だから写真撮っちゃだめだよ、絶対だめだから撮らないでね。シャッター音マジで殺意わく。撮りたい気持ちはめっちゃ分かるけど。

 

豊島美術館

アクセス最悪、展示物はひとつだけ。でも行ってほしい。それだけの価値がある。

画像検索でもかけてみてください、何がオモシロイんやって思う人いると思う。あそこは誰でも入れるお寺みたいな場所かなあと思っています。入場日時を予約して、1000円ちょっとの入館料、一日中入館できます。

館内は静謐な空間です。コンクリートで作られているので、音がめちゃくちゃ響きます。天井に穴が開いているのですが、夏は蝉の声がよく入ってきます。

内部には水があふれ、小さな皿や球が置かれています。内部には泉ができあがっていきます。

なんていうのか。水の通路の邪魔にならないように床に寝そべって、静かにひたすらぼんやりとできる空間ってそうそうないです。誰もが静かで、床はひんやりと冷たく、人工物の生えた自然と一体になれる感覚。感覚が研ぎ澄まされていくような気持ちになれます。すべてのことに疲れたら交通費と入館料と宿代握りしめて行ってください。

 

地中美術館

アクセスまあまあ悪い、展示物は変わらない。それでも行ってくれ。現代美術に触れるにはちょうどいい。

モネとデマリアとタレルと安藤忠雄の作品があります。デマリアの作品は日本じゃここだけです。ガンツ玉とか言い出す人は発想が乏しすぎるのでもうちょっと修行してから来てくれ。デマリアが好きすぎて通ってるうちに他の作品も好きになっていっておすすめに入れた。年パス10000円也。どうやって元とるかっていうと、一回直島に行ったときに複数回入館すればよい。5回で元とれる。一回買ったことあります。高級感がすごい。

なおデマリアは好きすぎて、大学の図書館に作品集のリクエストして通してもらいました。

 

猪熊弦一郎現代美術館

いーりの生家近くにある美術館。略称MIMOCA。ここはアクセスそこそこいい、新幹線と特急で行けるし駅から徒歩一分という優秀さ。

猪熊弦一郎先生の常設展と、企画展があります。企画展は絵画もやるし立体物もやってます。

馴染みのないひとに説明すると、「ひとつ前の三越の赤い包装紙(華ひらくという題がついてます)と手提げ袋つくったひと」です。他にも上野駅に壁画とか作ってるからちょっと調べてみてください。

あまりに身近でうまく説明できないので小ネタの紹介すると、オリジナルお土産品の充実っぷりがすごいし普段使いできる。大学時代はここのTシャツずっと着てた。

猪熊先生の企画展で以前あった「ねこたち」という展示が最高によかった。猪熊先生は猫が大好きでいっぱい飼ってた(やはり神絵師は猫を飼うのか)のですが、飼い猫の絵がめちゃくちゃ多いんです。企画展あって本になったんだっけ。Tシャツにはなってますし手ぬぐいにもなってます。猫好きは十中八九かわいいって言うと思う猫を描きます。マジでかわいい。ぶさいくな感じがたまらんのです。

ただひとつだけ、これは名画にほぼ共通することだと思うのですが、「エネルギー」というか「圧」がすごい。圧倒的パワーを感じる。猪熊先生は「アートはヴァイタミン」とか「美術館は心の病院」とか言ってますけど、頑丈な杖ついてないと骨折するレベルの熱量があります。元気な時に行くのが良いでしょう。線画のネチコヤンはめっちゃかわいい。あれはなんていうかヴァイタミンですわ。

 

あんまり古典絵画をうまく鑑賞できないので美術館にはそんなに行かないんですが、その中でのおすすめでした。経験値不足なのでもっといろいろ行ってみたいですね。特に常設展をしっかりやってるところ。

いーりの創作してきた話

こんにちは、いーりです。

 

創作ってなんだろう。

 

今日はリクエストがありました「創作について」の前編、創作史みたいなものの紹介です。これを読んで、後編の「いーりにとっての創作とは」の参考にしてもらえるとありがたいです。

 

今回「創作」と呼ぶものは「字書き、絵描き、音楽、書道」です。そのうち、音楽と絵描きについての略歴をしゃっべっていきます。それをふまえて、以下どうぞ。

 

音楽について

4歳ごろ。ピアノを始めました。やらされたのか自分からやると言ったのか覚えていませんが、あまり練習に熱心ではありませんでした。習い事のピアノは小学校を卒業するあたりで辞めました。クラシックを弾いていましたが、特にこの時弾きたい曲があったわけではありません。ただ、古き良き音楽に触れて、楽譜が読めるようになり、「楽譜をなぞる」ところまではなんとかできるようになりました。

それからは吹奏楽部に入り、アルトサックスをはじめ、大学に入って少しまで吹いていました。Es管だから、聞こえている音の名前が頭の中と合わないことがずっと続きます。ドがミってなんですかって感じ。

高校時代は全国を目指す学校でした(半自称進学校だったので、文武両道を重んじていました)。奏者は指揮者を崇拝しなければならないというような強制感に若干の反発を覚え、大学に入るまで「私は『音楽』をやっていなかった」という気持ちが芽生えていませんでした。四国大会で敗退したときも、「まあそうだよなあ」と思っていました。当初の同級生や後輩には怒られると思いますが、だって内部のいざこざに気を取られてるうえに、楽器の音を自分の声にできてない人間が「三年生だから」と合理的でない理由で抜擢される組織がいい成績収められるわけないじゃないですか。

ここで吹奏楽をやめました。なんか嫌になっちゃったです。

大学に入りました。二回生から作曲サークルに入りました。

何度も色々な場所で言っていることですが、私は音を紡ぐことができません。どれだけしんどい思いをしても、音の流れをアルトサックスに落とすことができなくなっていました。ピアノはちょっとだけできました。ドラムが一切できず、どうしたものかと思っているところでミニマルミュージックというジャンルに出会いました。これも音楽なんだと思って、ライヒやグラスなど聴くようになりました。そんな感じで、作曲もうまくいきませんでした。ずっとジャケットと雑務担当を行っていました。おかげでちょっとだけ著作権や原盤権に詳しくなりました。

音楽はそんなところです。昔からパターンを繰り返すことや同じ音を通るメロディラインが好きだったように思います、作られた記憶でなければ、ですが。

 

絵について。

5歳ごろ。今もうっすらと(のちに作られていなければ)覚えているのですが、母が職場から持ち帰った検査用紙の裏に猫を描きました。母はずっと日本画静物画、こと植物)をやっていたのですが、その絵がいたく気に入られ、現在でも額縁に入れられて実家に飾られています。それがうれしかった。額に入っている絵は、名画や母の絵しか見てきませんでしたし、母は絵に厳しかったので、認められた気になりました。

嬉しかったことといえばですが、私は構図を取ることがアホほど苦手なので、幼稚園で花の絵を描きましょうということになったとき。ヒマワリを描こうとしました。ヒマワリって大きい花ですよね。だからなるべく大きく描こうとしました。だから最初に与えられた八つ切り画用紙におさまらなかった。やさしい先生が、そこを一枚継ぎ足してくれました。四つ切り画用紙に、一輪のヒマワリを描いてみんなに見せたとき。「迫力がある」だのなんだのという褒め方をしてくれた気がして、それがうれしかった。

そこからは絵を描いていました。絵に厳しい母に、絵で認められるようになりたいと思うようになりました。でも母はとても厳しくて、私の絵は認められず、だんだんこっそり描くようになりました。

高校で二次創作というものに出会いました(出会わせてくれた友人ありがとう)。好きな作品の二次創作をやりました。

大学で、前述のとおりCDジャケットを描いたりしました。板タブを使っていました。漫研にも入っていたので、部誌も描きました。でもストーリーを練るのが苦手で、勢いで押すギャグ4コマか1枚絵ばかり描いていました。LINEスタンプも2つほど制作しました。いま3つ目作ろうとしてネタ集めしてる最中です。

また、バイト先で別料金をもらってカットイラストも描いていました。絵でお金がもらえるようになったので、ようやく母に「絵を描いている」ことを伝えてもいい気になりました。

社会人になって、ある程度のお金を稼げるようになりました。イラスト同人誌をはじめて作って、即売会で頒布しました。液タブを買いました。Wacom信者です。16inchと小さめですが、いつか大きな液タブ(22HD以上)を買いたいものです。そして今、絵が描けなくなりました。何を描いてもつまらない線しか引けず、つまらない構図しか取れないと思って絵が完成できなくなりました。

絵はそんなところです。持ってる著名な画家の画集は、モネと猪熊弦一郎です。猪熊弦一郎は生家の近くに美術館があり、しばしば母に連れて行ってもらって、いつも「わけわかんねーな」と思っていました。今もわけわかんねーです。

 

略歴はそんなところです。まだ話し足りないことがたくさんありますが、それぞれの思いについては後編で話していこうと思います。

新しく心理学の勉強を始めた話

こんにちは、いーりです。

今回はいつにも増して短めです。

 

元来他人に対する「共感」の能力が低く、空気を読むなんて到底できなかった自分。これはまずいと思ったのが先か「ヒトはどう考え、感じるのだろう」と思ったのが先か、今は心理学の勉強を始めました。

疑問に対してすぐに行動できるのは、高校時代の後輩の態度のおかげですね。今はプロのサックス奏者として活躍していますが、とにかく行動力の化身だった。

そして「勉強」というものに対して嫌悪感がなくて本当によかった、と思います。専門書?読む読む、って感じ。洋書?英語なら読もうと思える、って感じ。TOEICのリーディング死んでるけど、教科書英語だからね。あと出てくる語彙も少ないのでそのうち覚えられる。特にシュプリンガーから出てるものとかは読みやすい気がする。しないですか?

有識者各位、読みやすい良書が揃ってる出版社教えてください。私は村上春樹が読めないんだ。鷲田清一先生万歳。

 

とりあえずまあ近年ポピュラーな認知心理学からかなと思い、認知心理学と自我心理学の本を1冊ずつ読みましたが(どちらも和書ないし和訳本)、なかなか面白いですね。自我心理学の本は絶版になっていたところを、中古でありがたいことにだいぶ手頃な価格で買えました。どうしても読みたかったので僥倖です。

なお、この書籍の選定は心理学専攻の友人に手伝ってもらいました。ありがたや。

 

ところで、数学は洋書で学ぶとニュアンスが伝わりやすくていいんですが、心理学はそのあたりどうなってるんですかね?文化的や歴史的背景加味しないといけない?

それに「心理学は統計学みたいなもん」と言ってのけた方を目にしましたが(言いたいことは分かる)、サンプル数どうやって多く取るんですかね。条件設定かなり難しい気がするんだけど。統計学は数理統計学しかやってこなかったから分からない。サンプル数の少ない状態で「トーケーですドヤッ」てされたら「ううん……ああそう……」ってなるけどどうなんだ。

 

人の気持ちは分からなくても、気持ちの傾向を学ぶことはできるので、その点において有益かなと思います。特に自我心理学は後に精神分析学に吸収されているので、あまり本もありませんし、それ単体として追うのはあまりやらないほうがよいのかも、と思ったり。そんなことないですかね?

 

今は新しい教科書を自分で選定して読んでいるところです。広く浅くな本(つまり行間がかなり多い)なので、入門としてはなかなかハードなところを選んだなと思いつつ、気になるところから徐々につまみ食いしていこうと思います。

 

心理学と心の哲学とはどう違うのですか、と以前カウンセラーさんに尋ねたところ、「明確な線引きはない」という回答を得ました。これも気になるポイント。心の哲学も興味あるので。あ、科学哲学も勉強始めたんですがさっぱりわからないですね。言葉に耳なじみがなさすぎる。同じ自然言語とは思えない。

「数学のオネエサン」になりたい

こんにちは、いーりです。

 

今日はじぶんの夢の話をします。

「数学のオネエサン」になりたいんですが、その話をします。短いです。

 

理科のオネエサンとかカガクのオネエサンとかずるくないですか?あんな、なんか色混ぜたり竜巻作ったりなんか飛ばしたり。面白そうすぎるでしょ、興味持てそうすぎますもんあんなん。ずるい。なんべんでもいうけどずるい。数学もそういうのやりたい。

 

だいたいね、黒板でがりがり書いてはい解けたとかやったところで「おもしれー!」って思う人そんなにいないんですよ。いないの、だから私は孤独なの。悲しい、私は悲しい。もっと数学のこと好きになってほしい、数学に楽しいきっかけを見出してほしい。どうせどこ行こうと何してようとだいたい数学は使うんですよ、連立方程式なんか使わんとか言ってる人おるけど、「キノコ複数パック」が複数あったときどっちが自分にとって安くほしいキノコが手に入るかっていうと連立方程式使うんですわ。限定的すぎる?ちょっと他にぱっと思い浮かばなかった。許して。

ちょっとびっくりしたのが、歴史好きな友人に「パズルっぽくて楽しいっていうけど、パズルはストーリーがないから数学嫌い」って言われたことですね。なるほどそういう視点もあるのか。

ここで面白いなと思ったのは、いわゆる「数学で論理的思考力が醸成されるのは、数学が『AだからB、BだからC』っていう考え方をするからだ」みたいな論調がありますが、それはストーリー(演繹)であるわけで、おそらく「数学は演繹だけじゃない」ってことをその人はどこかで理解してるわけです。すごいでしょ、数学嫌いって言ってる側の人間が「演繹だけじゃないから論理的ナントカということはない」って理解してるんですよ。頭いいなと思いました。そして「パズルはストーリーがないから嫌い」って言われると、「ストーリーがあればいいんだな?じゃあ演繹法の証明の例でも紹介しよう」なんて思ったりするわけですが、好きになりたいって思ってない人に紹介したところで仕方ないのでやめてます。

 

まあそんなこたいいんですよ。サイエンスの中で数学ってかなり特異なポジションだなという。物理もブツがある、化学もブツがある、生物もブツがある、地学もブツがある。数学だけない。どこまでいっても数学は質量を持たないんです。いや、持つ数学のジャンルもあるんですけど、そこそこ専門に走るうえにだいたい数学単体として成立していない(理科を一緒にやってる)ことになるので。質量を持たないのに、どうやったら実験いっぱいサイエンスのオネエサンみたいになれるのか?まだわからないので、もっと勉強します。

 

そして、どうして「自分が」数学のオネエサンになりたいかというと、そういった使命感にかられているからです。

他者への理解を促進させ、興味を持たせるのは教職の役割なわけですが、現代日本の教育環境にそんなもの求めてはいけないので、私のような教職関係ない人がやらんとあかんな、と思ったのがひとつ。さらに、「自分は幸運にも周囲が賢く環境に恵まれ、自分が環境的にアホで、アホの学問に対する貢献の仕方を身をもって教えてくれたクラスメイトがいた」かつ「学問に関わりたかった」のがひとつ。後者について語ります。

プロフィール知ってる方いたらなるほどなと思っていただけると思うんですが、世間的には高学歴とされている学歴を手にしていながら、蓋を開けてみれば成績がゴミクズなんですね。日本の大学って入れば出られるようになってるので、一度合格してしまえばもうそのあとはどれだけゴミみたいな成績だろうと肩書は離れないんですね。かなりつらい。さらに、自分はずっと「自分はアタマが足りないから」と思って目をそらし続けていた「博士後期課程」。「アカデミックをずっとやっていたい」と思うようになって、まあそれが遅かったんですね、タイミング的に。もっと勉強してなきゃいけなかったけど、気づいたときには本当に「アタマが足りないから」諦めざるをえなかった。「D進したいです」と伝えて指導教員の結構かなりすごい先生に「いーりさんなら自分で判断できると思うから、よく考えて」と言われたとき、「傷つけないように、だめと言われたのだな」と判断して、その日は家で泣きました。とても悔しくて仕方がなかった。「性格はまさに向いてるね」というフォローが、自覚しているだけにかなりつらかった。大学教授にありがちな性格ってわかります?到底現代社会で生き延びられるような行動パターンじゃないですよね。それでなおかつ頭が悪い。死ですよ死。

じゃあ大学にいられない自分はアカデミックを諦めないといけないわけで、でも社会に出て、学問をもっと広めたいと思ってしまったとき、どうしよう、と思い、そこで高校時代の友人を思い出しました。彼は数学がけっこう苦手なほうで、わりと試験でも苦戦していたのですが、ある日彼に宿題の解説当番が当たった日のことです。どんな解説するんだろう、どこでつまずいて終わらせたのかな、と思いながら聞いていたのですが、それはそれは綺麗に「平易なことばでかなり身近になるように」解説してのけました。あまりにもキレイだったので、嘘のようですが生徒から全体で拍手が起こりました。彼の素直で実直な人柄もありますが、「おまえ、すごいな!よくわかった!」と私も思ったことを鮮明に思い出せます。嘘じゃないですよ、信じてください。あれは伝説。

そして、自分が今度は彼の役目を担う番だと思ったのです。自分が伝説になろうと思いました。あれは、「できない側」の人間でないと担えない役割だと思ったのです。

実際、研究室の勉強会も自分が主催や当番だったときは、ちゃんと準備していれば「非常にわかりやすい」という評価を得ていました。ましたよね?私の都合のいい思い出補正だったら恥ずかしいのですが、研究室の人どうでした?

 

アカデミックが弱くて、社会をそれで回そうとすると、確実に終わります。技術大国ニッポンとか言っておいて、なかなかどうして現実は「まじかお前」という風潮なんですよ。未来が無さすぎる。

勉強しろ。できれば楽しく。そして数学をやれ。スウガクアレルギーとか言ってる場合じゃない。どこでも使うから。私が手伝うから。一緒に賢くなろう。そして最終的には私ができないことをやってくれ。

ある程度脳の発達も関与するとは思う。思うが、数学LDでも数学を楽しむことくらいはできるし、「いいよね、数学」くらいにはなったっていいはずだ。私も倫理がべらぼうに苦手だ。苦手だから、ってバチバチに勉強して試験結果が半分以下になるくらい苦手だが「いいよね、倫理」と思う。数学に対して、そういう風潮になってほしい。

「勉強」は本当に楽しくないのか?

こんにちは、いーりです。

 

今回の論旨は「勉強」はいつ楽しくなるか?ということです。

勉強楽しくないって人がほとんどだと思いますが、勉強楽しいって人もいるわけで、その境目ってどこにあるんだろうなと疑問に思いました。

今回の記事を書くにあたって、数学が嫌いな人、数学LD疑惑の臨床心理士、ベテラン塾講師、公立小学校の校長先生に話を直接聞き(選別はコネクションの関係です)、敬愛するQuizKnockの書籍を読み、自分の過去を振り返ってみました。つまり「いろんな立場の『勉強』や『楽しい』に関わる職業の人」と触れたわけです。

なにせ私は「数学のオネエサン」になりたいですから、「数学おもしろい!」って思ってもらいたいわけです。その話もしたいので、別記事にしましょう。

よし、やっていきましょう。

 

【本編】勉強は楽しいところからはじめる

本当に申し訳ないのですが、「試験のための勉強法」としてはコスパの非常に悪いやりかたをご紹介します。コスパ求めるならどうしたらいいかっていう点についてはまだ喋れないので、数学以外のやつは他をあたってください。

小学校の校長先生には「公立小学校の各科目って、何が目的なの?」といったことも聞きました。我々がおそらく最初に学問というものに学問として触れる、「教科書がある」タイミングは、小学校一年生だと思います(一部の人を除く)。つまり初めて学問として触れるものを教える立場は、何を目的にしていたのか?というところですね。

校長先生からは「その科目に興味を持ってもらって、勉強楽しいって思ってもらうことも目的の一つ。そしてそれはたいへん難しい」という回答をもらいました。そうだよね、だって勉強楽しいって人そんなにいないもん、と思いました。環境的に教科書を閲覧することはできないのですが、教科書ってなんとなくカラフルだったし、キャラクターがいて、会話しながら学びを補助していく……といった形式をとっていたようにも思います。「興味を持つ」ところが、勉強が楽しくなる最初の一歩というわけですが、その興味を持つタイミングは人それぞれなので、同じ教科書で同じように勉強したら、そりゃタイミングがつかめない人も出てくるわいなと。

たとえば、私は小学校のころから図形問題がとにかく好きで、いちばん好きで、いちばんたくさん解いていたと思います。きっかけは分からないです、気づいたら好きだった。たぶんうまいこと成功体験が積まれたんでしょう。でも、数学嫌いの友人は「パズルはつまんなかったから図形問題がいちばん嫌いだった、ストーリーがないから」と言っていました。

これはおもしろくて、私はストーリー性を重視していないので、その人が好きな歴史については、私はそうでもありません。最近やりたいと思うようになりましたが、きっかけは「仏教史を学びたいが、それを理解するには世界史や日本史を知らないといけないだろう」というところです。仏教史については、頭の中にイマジナリーお坊さんを作ろうということで、「じゃあ宗派決めないとね、でも宗派多すぎてなんもわからん、よしお坊さんにどうすればいいか聞くか、まあそうですよね勉強するところから始まりますよね、あ、歴史ですか、はい、やります」という流れでした。

ぶっちゃけ歴史は苦手ではありませんでしたが嫌いでした。ストーリーを教えられてもどうしても政治的な偏りがあるというのが許せませんでした。冷静に考えていろんな文献を読めば偏りもある程度は是正されるんですけどね。でも「やりたい、やろう」と思えるきっかけは、自分のメンタルを健やかにするところでした。なんでお坊さんかって?寺生まれの友人が何人かいたり、お坊さんがお経をあげに来たりと身近だったからですかね。あと唯一神がいないのがいいですね。お釈迦様は神様じゃない。

 

話を戻しましょう。楽しくなくて嫌いだった歴史をやるきっかけが、他の人とは違ったわけです。案外多いきっかけかもしれませんが、まさか「おまえはこれから仏教の宗派を選ぶことになるから、前提知識のために歴史は思いきりやっとけ」なんて過去の自分に言ったところで信じないでしょう。だからこのきっかけは「今、幸運にも遭遇した」んですね。

勉強に興味を持つきっかけは、幸運を掴まないと得られません。そして、幸運は自ら掴みに行くものです。口を開けて「ほら、楽しくしてみろよ、興味持たせてみろよ」と餌が運ばれてくるのを待っているだけでは、いつまでたっても勉強は楽しくならんわけですね、残念。

せっかく勉強やるんだったら楽しい方がいいでしょ。それに勉強した内容は誰にも奪えない自分だけの甘い果実です。勉強は自分のためにやるんです。聡い読者の方ならこの先の展開が読めると思いますが、「楽しくなるためには、きっかけをつかんで成功体験を積むのが必要だが、きっかけをつかむには経験をこなす必要があるなら、「楽しくない勉強をやらなきゃいけない時期」がどうしてもあることにならないか?」という疑問が浮上するのが自然ですね?自然なんですよ、そういうことにしてください。

ここで回収しましょう、「勉強は楽しいところからはじめる」のです。楽しくないところはひとまず置いておいて、楽しいところからはじめればよいんです。楽しいところなんにもないって?いやいやご冗談を、絶対あるから、本当だから。本当に見つからないならもう諦めるしかないけど、近道しなくていいから「ここならギリ楽しい」ってところからはじめましょう。勉強を進めるうちに、きっかけが増え、他の範囲も勉強するようになって、楽しいと思える範囲が広がっていくと思います。人によりますが、私は狭く深く理解しようとする脳のクセがあるので、広がるスピードは遅いですが、それでもちゃんと広がってはくれます。そこまできたら、おめでとうございます、きっと繰り返しで楽しくなっていきますよ。

 

さて、仏教史のために歴史勉強します。まずは概要をさっくりWikipediaかなんかで調べて全体をつかもう。それからとっかかりの部分を嗅覚で見つけて書籍買ったりしよう。ロシア史に詳しい友人は……今回はお世話にならないかもしれないけど。あと近代日本史に詳しい先輩もジャンル違いそう。歴史好きの知り合い多いですね、これからきっとお世話になるだろう、ありがたやありがたや。

「数学なんて大ッ嫌い!」って言われるたびに思うこと

こんにちは。いーりです。

今日は絵のことではなく数学のことについて、こと「数学が嫌い」ということについて考えていきたいと思います。

 

みなさん数学は好きですか?

私は好きです。かなり雑な問いですが、嫌いな人は迷わず「嫌い!」と答えるのではないでしょうか。

数学が好きな人ってわりと少ない印象です。そして私は仲間が欲しいです。「嫌い!」って言われるとそこそこ落ち込みます。「式使わずに説明しろ」ってよく言われます。それがたまらなく嫌で、「ふーん、面白れぇ奴」くらいまでには認識を改めてほしいです。だから、今から数学のダイマをします。

 

その前に、前提として自分の立場を晒しておきます。期待してやってきた理学部の人には本当に申し訳ないと思っています。間違ってること書いてたらボコボコに殴ってください。私だってやり直したいので。

・算数や数学はずっと好き

・国立大情報系研究科修士卒(学位:計算科学)

・人に教えられるのは線形代数くらい

・数値解析の理論的なところをちょっとだけ研究した

・やってきたことを論文にする力がゴミだったのでD進断念

つまり、私が今から数学をマーケティングするにあたっての立場は「工学屋さん」なわけです。数学をやってる人からは「おまえは工学だ」と言われ、工学をやってる人からは「おまえは数学だ」と言われる絶妙に肩身の狭い分野を出てきました。さて、そういう立場の人間がいよいよ数学を布教します。

高校までの教育機関にいる人向けですが、非常に幸いなことに、教育機関を出ても、本屋やネットの海を泳げば多種多様な書籍がゴロゴロ転がってるので、ちょっとそういう人向けにも後半に書いていこうと思います。

 

【高校生まで向け】解法は覚えても覚えなくてもどっちでもいい、大事なのは解に辿り着こうとする力を身につけること

結局のところ、ある程度問題が解けないと「面白い」と思う入口に立つこともできないですし、きっとこの先どこかしら受験されると思います。なので、まずは明らかに解ける問題を解いて成功体験を積みましょう。そして解けたら「やったー!」と口にしてください。脳が騙されてくれて、次はもう少し楽しくなります。そしてもう少し難易度を上げて同じことをやってください。

問題を解くにあたっての解法覚えるか論争はぶっちゃけ「どっちでもいい」と思っています。覚えたきゃ覚えればいいし、極力覚えたくないなら根底を理解して、自力で解法を編み出せるようにすればいいです。少なくともアホほど同じ問題を解いてればそのうちページごと覚えてます。(ちなみに私は後者でした。抽象化すると情報量が減るので覚えないといけないことが減り、応用もしやすいと思ったからです。よく使う手法はよく使うぶんいつの間にか覚えてました。自分に合う方法で問題に取り組みましょう)

ただこれだけは言いたいのが、「1ミリも理解せず丸暗記だけはやめといたほうが後々得」です。

今どんな問題集使ってますか?解法はどれくらい載ってますか?その解法に納得してますか?自分が解こうとしてつまずいたところは何がよくなかったのか理解できてますか?

最初から模範解答のような解法で答えに辿り着ける人は、たぶん、ごくわずかだと思います。違うアプローチで解こうとする、またはまったく歯が立たないような状態から始まるものです。大事なことなので強調しますが、「模範解答に至るまでの道のりを、納得できるまで模索してください」。最初は投げ出したくなると思います。苦しいしつらいと思います。どうか耐えてください。幸いなことに、問題には正解が必ず存在します。そして模範解答に納得できなければ、別解を作ってみたり(もちろん誰かに添削してもらってください)、信頼できる人に、納得できるまで「自分がやろうとしたこと」を伝えたうえで(これは本当に本当に重要です。「どうやったの?どう考えた?」と聞かれるのは、決して責められているわけではありません。最初から「答え教えてください」はやらないほうがいいです)聞いてください。誰に聞いても「覚えろ」としか言われなかったら、運が悪いか、本当に「覚えるべきセオリー」かのどっちかだと思います。後者だったら、体で理解するまでその問題をやってください。身も蓋もない言い方をすると、そういった経験を積まずにエレガントな解法の体得に辿りつくことなんてできませんし、当然それを応用することもできません。まったく解法が載ってない問題集がたまにありますが、解き方もわからない状態で理解できるわけないだろと思うので、違う問題集やってセオリー身につけてから戻ってくるのがいいと思います。個人的にはそんな問題集やめちまえと思いますが……

そして必要なセオリーを無事体得できて、ある程度問題集を自力で進められるようになったら、おめでとうございます。「これかな?あれかな?」と使える道具が増えている証拠なので、より難しい問題にも挑戦できるようになっているはずです。それが「解に辿り着こうとする力」と結びつけば、どんどん先に進んでいけます。これはこの先本当に重要な力になるので、しっかり鍛えていきましょう。そして解けたら「やったー!」と口にしてください。ドーパミンめっちゃ出ますよ。慣れてくると解き終わったあとの喪失感がすごいですが、それを埋めるために次の問題に手をつけていきましょう。なんだか麻薬みたいですね。

きっとそのときには、数学が好きとか、楽しいとか思えるようになっているはずです。

 

「なんだかできるようになると楽しそうだぞ」くらいは思っていただけたでしょうか。

今度は、教育機関を出て、数学の勉強が義務じゃなくなった人向けへのダイマです。高校生までの人が読んでも面白いように書いたつもりですが、理解するにはより高度な数学の知識が必要になるので、大学までのモチベーションを見つけるために読むくらいでお願いします。

 

【フリーな人向け】「正解」を求めなくてもいい状態の数学は砂遊びなので延々と楽しめるうえ、たまに生きてて役に立つ

正直なところ、勉強しないといけないわけでもないのに数学をやろうって人はあんまりいないと思います。義務でもないのにこれから数学をやろうという人は、「数学をやればこの先うれしいことがある」と思っているんじゃないでしょうか。その通り、実際うれしいです。

まず、仕事で役に立つかどうかは置いておいて、純粋に教養としてこれほどまでに素直なものはないと思っています。公理があり、定義があり、定理があり、そしていずれもが、驚くほど「書かれた通りのことのみ」を指しているんです(定理に書かれたことが正しいかどうかを考えることが何より面白いですね)。びっくりしませんか?それ以外のことを考えなくていいんですよ、なんてすばらしいんでしょう。想像が膨らみまくりますね。公園で砂遊びしてるときくらいわくわくします。

さらに、数多くの分野に分かれていることから、無数に書籍が存在します。おすすめは専門書ですが、勉強椅子にアーロンチェア薦めてるようなものです。高いですし行間めっちゃ端折られてて読解に時間かかりますし。でもおすすめしたいです。

たとえば、

「コーヒーカップとドーナツはおなじもの」

「ボールをばらばらにして組み直すと、元のボールと同じ半径のボールがふたつできる」

のような世界があります(いずれも有名なので、どっちも知ってる人もいると思います)。嘘じゃないです。なんだか魔法みたいですよね。でもそれぞれの世界では、それが確かに成立するんです。覗いてみたくないですか?

もっと直感的に、身近なところでいくと、

「6人集まったら、互いに知り合いな3人か、互いに知らない3人という組み合わせが必ず発生する」

ということも証明されています。これは分かりやすいですね。

こんな感じで、いろんな分野に面白い話が転がっています。それを理解するだけでも、ちょっとかしこくなった気になれますし、ひょっとすると、生きてるとどこかで役に立つことがあるかもしれません。

 

数学であらゆる事象がわかるようになるわけではありませんが、「新しい世界の見方をしる」ために、数学、おすすめします。